2011年05月16日
災害ボランティアの仕事 ~ 震災から2ヶ月② ~
災害ボランティアの仕事とは?
今回初めて災害ボランティアに参加しました。
本当はもっと早く行きたかったですが、当初はまだ個人での
活動は難しく、受け入れも県内の人のみという状態でした。
ピースボートなどの市民団体で行くことも考えていましたが
事前説明会の参加や、最短で一週間以上の滞在が必要など
いろいろな条件などがあったので、私にはちょっと難しく
また個人的にまわりたい場所もあったので、単独で行くことにしました。
現地での宿泊先は、当初ビジネスホテルに泊まることも考えましたが
もっと気楽に泊まれる市内の健康センター(温浴施設)に泊まりました。
基本的に何処でも寝れる私。前の仕事ではよく帰りが夜中になることも
多かったので、事務所の椅子や床に養生シートを敷いて寝たもしてました。
(女の子でこんなことしてたのは私くらいですが…)
自分の車で寝るのも全然平気だし、今でも家では眠たくなるギリギリまで
何かしているので、かなりの確率で座りながら寝てしまってます。
もちろん途中で起きて、ちゃんと寝ますけどね。でもいかんいかん
って、そんなことはどうでもいいのですが、
翌日も朝からボランティアセンターに行きました。
この日は2回目ということもあってだいたい流れはわかっていたので
受付を済ませ、そのままマッチング待ちになりました。
この日は前日よりも多くの人がいました。女性も2~3割り位に増えてました。
ボランティアセンターはもともとあったものではなく、今回の震災を受けて
立ち上がったものです。この街では今までボランティアというと何か町のお祭りとか
イベントなどで必要な、どちらかというと楽しいボランティアばかりだったそうです。
だから今回のような震災に対するボランティアのやり方がよくわからないので
他県から経験のある人たちが応援に来て、運営の指針を決めているようです。
このセンターには鹿児島や福岡の人が多く来ているようでした。
朝の9時から受付が始まりこのマッチング作業が終わるまでがだいたい10時過ぎ頃。
それから決まったグループから順に現地へ向かいます。
マッチング作業は数ある依頼の中からその日出来るものをまとめ
それにそってどういう人が必要かとか、何人必要かとかスタッフの方が一つずつ
組み合わせていく作業です。
例えば車を出せる人を先に決めその後
「瓦礫撤去作業なので男性何人必要です。お願いできる人いますか?」
という風に声かけられて、自主的に手を上げてグループ分けされていきます。
その後グループごとにチームリーダーを決めて、その内容に必要な資材等を
準備してから現地に向かいます。
この日私が入ったグループは福岡から応援に来られた市の職員関連の男性二人と
神奈川県からご夫婦で来られた少し年配の女性の方。後は車を出してくれた県内の
男性の方と私の計5人。何故か流れで私がチームリーダーに任命されました。
私達が派遣されたのは、市内でも津波の被害が一番大きかった沿岸部にある
とある食品工場跡地。ここは海の目の前ということもあり建物は全壊でした。
ちなみにリーダーの仕事は必要資材の確認や、依頼人や事務所との連絡。
現地作業での全体確認や指示だし等。もちろん現地での作業は依頼主さんと
相談しながら進めます。
この食品工場は工場だけあって、かなり敷地も広くすでに何日も継続でボランティアが
入っていました。その為、自由に歩けるスペースも確保されていて、作業も明確でした。
でも敷地内にはすでにまとめられた数え切れないほどの土嚢袋やゴミの数々。
一番初めに足を踏み入れた人たちはどこから手をつけたらいいのかわからないほど
本当に大変な作業だったと思います。
当日も天候があまり良くなかったので、またもや屋内での作業。
とはいえ建物は津波で全壊状態。壁などもぶら下がっておりヘルメットは必需品でした。
作業内容は男性陣は土砂の撤去。私達女性陣は土砂はもちろん、工場内のあらゆるものが
混ざり込んで廃棄することになったゴミの山の分別。
その山の中には、そこで作っている食品自体や商品シールのロールなどもありました。
心が痛かったです。
紙類、金属、プラ、燃えるもの、燃えない物、木、ガラスなどに分別する作業で、
かなり細かい物ものもあったので、限られた時間の中でどこまで出来るか最初わからず
少し気のめいりそうな作業でしたが、気合入れてその作業に集中し、みんなで協力して
最後には綺麗にその山を片付けることが出来ました。
家主さんもそこまで出来るとは思ってなかったようで、とても喜んでくれました。
とりあえずは良かったけれど、まだまだたくさんの手が必要な場所でした。
その工場の前の家は本当に海の目の前で、しかも横に小さな川が流れているのですが
家の一階部分はすでに形が無く、2階部分だけがその川にかかっている橋の上にのっかてました。
目の前にしてるけど、なんだか現実とは思えないような光景が沿岸部には広がってました。
一方、狭い道路一本挟んで外部から見る限りでは大きな被害がなさそうな家もありました。
運なのか、何なのかわかりませんが、そういう光景がたくさんありました。
そんな絶望的な状況でも、今回の依頼主の女性の方は最後に
「小さくてもいいからまたこの場所でいつか工場を再開させたい。
関東の人たちがまた遊びに来てくれるような場所を残したい。」って言ってました。
みんな一生懸命、絶望的な状況の中からも希望を見出そうとして頑張っています。
すごく大変なことではありますが、それでも津波被害だけなら
いつか必ず復興できると思いますが、
今回それを難航させているのがやはり原発の問題。
これが無事に収束しないと本当の意味での復興はまだまだ出来ない状態です。
なんとなく放射能慣れしてきてしまっている今、
私達はもっともっと真実を知り、どう対処すべきか考える必要があると思います。
続きはまた今度。
今回初めて災害ボランティアに参加しました。
本当はもっと早く行きたかったですが、当初はまだ個人での
活動は難しく、受け入れも県内の人のみという状態でした。
ピースボートなどの市民団体で行くことも考えていましたが
事前説明会の参加や、最短で一週間以上の滞在が必要など
いろいろな条件などがあったので、私にはちょっと難しく
また個人的にまわりたい場所もあったので、単独で行くことにしました。
現地での宿泊先は、当初ビジネスホテルに泊まることも考えましたが
もっと気楽に泊まれる市内の健康センター(温浴施設)に泊まりました。
基本的に何処でも寝れる私。前の仕事ではよく帰りが夜中になることも
多かったので、事務所の椅子や床に養生シートを敷いて寝たもしてました。
(女の子でこんなことしてたのは私くらいですが…)
自分の車で寝るのも全然平気だし、今でも家では眠たくなるギリギリまで
何かしているので、かなりの確率で座りながら寝てしまってます。
もちろん途中で起きて、ちゃんと寝ますけどね。でもいかんいかん
って、そんなことはどうでもいいのですが、
翌日も朝からボランティアセンターに行きました。
この日は2回目ということもあってだいたい流れはわかっていたので
受付を済ませ、そのままマッチング待ちになりました。
この日は前日よりも多くの人がいました。女性も2~3割り位に増えてました。
ボランティアセンターはもともとあったものではなく、今回の震災を受けて
立ち上がったものです。この街では今までボランティアというと何か町のお祭りとか
イベントなどで必要な、どちらかというと楽しいボランティアばかりだったそうです。
だから今回のような震災に対するボランティアのやり方がよくわからないので
他県から経験のある人たちが応援に来て、運営の指針を決めているようです。
このセンターには鹿児島や福岡の人が多く来ているようでした。
朝の9時から受付が始まりこのマッチング作業が終わるまでがだいたい10時過ぎ頃。
それから決まったグループから順に現地へ向かいます。
マッチング作業は数ある依頼の中からその日出来るものをまとめ
それにそってどういう人が必要かとか、何人必要かとかスタッフの方が一つずつ
組み合わせていく作業です。
例えば車を出せる人を先に決めその後
「瓦礫撤去作業なので男性何人必要です。お願いできる人いますか?」
という風に声かけられて、自主的に手を上げてグループ分けされていきます。
その後グループごとにチームリーダーを決めて、その内容に必要な資材等を
準備してから現地に向かいます。
この日私が入ったグループは福岡から応援に来られた市の職員関連の男性二人と
神奈川県からご夫婦で来られた少し年配の女性の方。後は車を出してくれた県内の
男性の方と私の計5人。何故か流れで私がチームリーダーに任命されました。
私達が派遣されたのは、市内でも津波の被害が一番大きかった沿岸部にある
とある食品工場跡地。ここは海の目の前ということもあり建物は全壊でした。
ちなみにリーダーの仕事は必要資材の確認や、依頼人や事務所との連絡。
現地作業での全体確認や指示だし等。もちろん現地での作業は依頼主さんと
相談しながら進めます。
この食品工場は工場だけあって、かなり敷地も広くすでに何日も継続でボランティアが
入っていました。その為、自由に歩けるスペースも確保されていて、作業も明確でした。
でも敷地内にはすでにまとめられた数え切れないほどの土嚢袋やゴミの数々。
一番初めに足を踏み入れた人たちはどこから手をつけたらいいのかわからないほど
本当に大変な作業だったと思います。
当日も天候があまり良くなかったので、またもや屋内での作業。
とはいえ建物は津波で全壊状態。壁などもぶら下がっておりヘルメットは必需品でした。
作業内容は男性陣は土砂の撤去。私達女性陣は土砂はもちろん、工場内のあらゆるものが
混ざり込んで廃棄することになったゴミの山の分別。
その山の中には、そこで作っている食品自体や商品シールのロールなどもありました。
心が痛かったです。
紙類、金属、プラ、燃えるもの、燃えない物、木、ガラスなどに分別する作業で、
かなり細かい物ものもあったので、限られた時間の中でどこまで出来るか最初わからず
少し気のめいりそうな作業でしたが、気合入れてその作業に集中し、みんなで協力して
最後には綺麗にその山を片付けることが出来ました。
家主さんもそこまで出来るとは思ってなかったようで、とても喜んでくれました。
とりあえずは良かったけれど、まだまだたくさんの手が必要な場所でした。
その工場の前の家は本当に海の目の前で、しかも横に小さな川が流れているのですが
家の一階部分はすでに形が無く、2階部分だけがその川にかかっている橋の上にのっかてました。
目の前にしてるけど、なんだか現実とは思えないような光景が沿岸部には広がってました。
一方、狭い道路一本挟んで外部から見る限りでは大きな被害がなさそうな家もありました。
運なのか、何なのかわかりませんが、そういう光景がたくさんありました。
そんな絶望的な状況でも、今回の依頼主の女性の方は最後に
「小さくてもいいからまたこの場所でいつか工場を再開させたい。
関東の人たちがまた遊びに来てくれるような場所を残したい。」って言ってました。
みんな一生懸命、絶望的な状況の中からも希望を見出そうとして頑張っています。
すごく大変なことではありますが、それでも津波被害だけなら
いつか必ず復興できると思いますが、
今回それを難航させているのがやはり原発の問題。
これが無事に収束しないと本当の意味での復興はまだまだ出来ない状態です。
なんとなく放射能慣れしてきてしまっている今、
私達はもっともっと真実を知り、どう対処すべきか考える必要があると思います。
続きはまた今度。
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Posted by kurumi at 23:59
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