2012年04月21日
石巻弾丸ツアー ③ ~住吉公園~
石巻弾丸ツアー③ です。
なんとなく、ひかれるように歩いて辿り着いたのは
「住吉公園」というところでした。
たまたま、ツイッターでフォローしている人の中に
住吉中学校の先生がいて(知り合いではないのですが…)
この方は、福山雅治さんのファンらしく震災直後の福山さんの
チャリティラジオ番組に被害の現状報告等をされており、
それ以降ちょこちょこ通常の番組内でも状況を紹介されていて、
先日はなんとその甲斐あって学校の体育館で福山ライブが
開催されたのでした!
学校の生徒さんや先生はもちろん、皆さん感激されていました。
歌で元気を届けるってやっぱりいいですよね。
でも石巻に来るまではそんな事すっかり忘れていましたが、
それを聴いていたせいもあってか、そういえばあれ石巻だったなと
思い出し、あてもなく歩きながらもなんとなく住吉という
名前が付くここへたどり着いたのでした。
そこは駅から歩いて15分ほど。
この場所の震災前の姿を知りませんでしたが、ここでも
大きな傷跡があるのがすぐにわかりました。
公園のすぐ横を川が流れているのですが、
目についたのは赤い橋。
でも、この橋の前には不自然な防波堤。。
渡ることはできません。
橋の向こうにある小さな島。
そこには松の木が横たわっていました。
公園内に入ると、目の前には神社が。
その手前にはある建物が建っていました。
ふと、川の方をもう一度見ると
おじいさんが川を見ながら二人、立ち話をしていました。
とりあえず「おはようございます。」と声をかけると
一人のおじいさんが話しかけてくれました。
おじいさん 「○○にボランティアで来たのかね?」
私 「いや、今回はボランティアじゃなくて…
神奈川からちょっと様子を見に来ました。」
なんて、たわいもない話をしているとそのおじいさんが
自然と公園内を案内してくれ始めました。
まずは、先ほどあった公園内の建物。
近づくと「立ち入り禁止」の張り紙が。
でも、ドアも窓もなく中は丸見えの状態。
するとおじいさんが言いました。
「津波が2m位まで来たんだよ。それがこの跡。」
玄関にある壁をよく見ると、水の跡らしきものが残ってました。
そのまま玄関横の部屋を見ると、床は全部剥がされて、
その下には炭が敷かれていました。
そしてそこの壁にもよく見ると水の跡の線がくっきり残っています。
おじいさん曰く、波はもっと高く来たけど、一番水が留まっていた
高さにその跡は残っているんだと。
地面からだいたい1m位の高さでした。
被災地の状況は、昨年の5月に福島へボランティアに行った時にも
沿岸部を見ていたのですが、やはり言葉に詰まってしまいます。
少し呆然としているとおじいさんは「写真撮らんの?」と言うので
「いいんですかね?」と聞くと、
「いいんだよ。現状を知って伝えてもらいたいよ。」と言われました。
前は震災直後だったのもあり、被災地の状況を一枚も取れませんでした。
それでも、いまでもその光景は目に焼き付いています。
だからなんとなく今回も躊躇いはありましたが、
その言葉を聞いて今回は写真に収めていこうと思いました。
ちなみにこの床はピースボートのボランティアの皆さんによって
剥がされたそうです。その下の炭は関西から届いた竹炭だそうです。
東北では木がたくさん取れるので木炭がほとんどだから竹炭は
珍しいって言っていました。
神社でお参りをすると、神社の裏手にある高台へ
案内してくれました。そこから町が一望できました。
それほど大きな敷地ではありません。
「あの日、ここにも40人位の人が避難したんだよ…。」
おじいさんは言いました。
この場所に40人…。きっとかなり狭かったはず。。
みんなどんな思いでこの場所に立っていたんだろう…。
きっと私なんかには到底わからないほどの思いだったと思います。
境内に戻り、住吉神社(正確には大島神社というそう)で
お参りをしてからおじいさんにお礼をいうと、
ついでだからと今度は川沿いを案内してくれました。
先ほど見た赤い橋。もともと防波堤はなく、
やはりここは震災前までは渡れたそうです。
震災時にこの周辺は70cm位地盤沈下したそうです。
その為、川沿いの道には防波堤が出来て、
道は砂利で整備されこんな感じになっています。
ここは昔、「袖の渡り」と言われており
源義経が船賃の代わりに片袖をちぎって船頭に
与えたと伝えられ、その石碑なんかもありました。
ちなみにこの赤い橋を渡った小さな島(雄島と言うそう)の
近くには巻石という石があって、その周りを時々渦が巻くらしく
それがこの「石巻」という名前の由来になったという説もあると
おじいさんが教えてくれました。
偶然にも初めて着いた場所が
石巻由来の場所だったとはなんともです。
そのまま川沿いを歩くとおじいさんが言いました。
「ここも写真撮ったら?みんなこんな感じだったよ。」と言って
横を見るとお家が完全に崩れていました。
ここの方は現在仮設住宅に避難されているそうです。
それを聞いてほんの少し安心しましたが、1年以上たっても
まだまだ手つかずの場所があるのだという事も実感しました。
そのまま少し歩くと、
「このまま道なりに行ったら住吉小学校があるから、
それを曲がるとまた町の方へ戻れるよ。」というので、
再びお礼を言っておじいさんと別れ、
川を見ながら一人で歩き始めました。
その道を突き当たると小学校がありました。
ちょうど通学の時間だったので、
元気にみんな学校へ入っていくところでした。
でもこんな川の近くに小学校が…
本当に大変だったと思います。
門の前の先生に軽く会釈しながら、また町の方へ戻っていくと
自転車に乗ったさっきのおじいさんが道の反対からまた声を
かけてくれました。軽くお礼と挨拶を交わすとまたおじいさんが
戻ってきたので再び一緒に歩きながら話します。
来る前に何かで見た
「桜で有名な日和山公園に行こうと思う」と伝えたところ
じゃあ案内しようと言って、自転車を押しながらそのまま
結局また案内してくれることになりました。
話を聞くとこのおじいさんは町のお掃除係りをやっていて
時々ボランティアに来る人たちの案内を時間があれば
しているとのことでした。
お年を聞くと、74歳。でも全然元気です。
そして何よりものすごい記憶力。
道中いろんな話をしてくれるのですが、多くは歴史的なコト。
この場所は伊達正宗が~とか、川村孫兵衛が~とか
歴史が苦手な私には若干難しかったですが、
ただただその記憶力と話に関心しながら
「なるほど~」と聞いていました。
そうこうしているうちに、また川沿いへ戻り
今度は日和山公園を目指します…
④へ続く。。
(って、これ一体いくつまで続くのか…。自分でも謎です)
なんとなく、ひかれるように歩いて辿り着いたのは
「住吉公園」というところでした。
たまたま、ツイッターでフォローしている人の中に
住吉中学校の先生がいて(知り合いではないのですが…)
この方は、福山雅治さんのファンらしく震災直後の福山さんの
チャリティラジオ番組に被害の現状報告等をされており、
それ以降ちょこちょこ通常の番組内でも状況を紹介されていて、
先日はなんとその甲斐あって学校の体育館で福山ライブが
開催されたのでした!
学校の生徒さんや先生はもちろん、皆さん感激されていました。
歌で元気を届けるってやっぱりいいですよね。
でも石巻に来るまではそんな事すっかり忘れていましたが、
それを聴いていたせいもあってか、そういえばあれ石巻だったなと
思い出し、あてもなく歩きながらもなんとなく住吉という
名前が付くここへたどり着いたのでした。
そこは駅から歩いて15分ほど。
この場所の震災前の姿を知りませんでしたが、ここでも
大きな傷跡があるのがすぐにわかりました。
公園のすぐ横を川が流れているのですが、
目についたのは赤い橋。
でも、この橋の前には不自然な防波堤。。
渡ることはできません。
橋の向こうにある小さな島。
そこには松の木が横たわっていました。
公園内に入ると、目の前には神社が。
その手前にはある建物が建っていました。
ふと、川の方をもう一度見ると
おじいさんが川を見ながら二人、立ち話をしていました。
とりあえず「おはようございます。」と声をかけると
一人のおじいさんが話しかけてくれました。
おじいさん 「○○にボランティアで来たのかね?」
私 「いや、今回はボランティアじゃなくて…
神奈川からちょっと様子を見に来ました。」
なんて、たわいもない話をしているとそのおじいさんが
自然と公園内を案内してくれ始めました。
まずは、先ほどあった公園内の建物。
近づくと「立ち入り禁止」の張り紙が。
でも、ドアも窓もなく中は丸見えの状態。
するとおじいさんが言いました。
「津波が2m位まで来たんだよ。それがこの跡。」
玄関にある壁をよく見ると、水の跡らしきものが残ってました。
そのまま玄関横の部屋を見ると、床は全部剥がされて、
その下には炭が敷かれていました。
そしてそこの壁にもよく見ると水の跡の線がくっきり残っています。
おじいさん曰く、波はもっと高く来たけど、一番水が留まっていた
高さにその跡は残っているんだと。
地面からだいたい1m位の高さでした。
被災地の状況は、昨年の5月に福島へボランティアに行った時にも
沿岸部を見ていたのですが、やはり言葉に詰まってしまいます。
少し呆然としているとおじいさんは「写真撮らんの?」と言うので
「いいんですかね?」と聞くと、
「いいんだよ。現状を知って伝えてもらいたいよ。」と言われました。
前は震災直後だったのもあり、被災地の状況を一枚も取れませんでした。
それでも、いまでもその光景は目に焼き付いています。
だからなんとなく今回も躊躇いはありましたが、
その言葉を聞いて今回は写真に収めていこうと思いました。
ちなみにこの床はピースボートのボランティアの皆さんによって
剥がされたそうです。その下の炭は関西から届いた竹炭だそうです。
東北では木がたくさん取れるので木炭がほとんどだから竹炭は
珍しいって言っていました。
神社でお参りをすると、神社の裏手にある高台へ
案内してくれました。そこから町が一望できました。
それほど大きな敷地ではありません。
「あの日、ここにも40人位の人が避難したんだよ…。」
おじいさんは言いました。
この場所に40人…。きっとかなり狭かったはず。。
みんなどんな思いでこの場所に立っていたんだろう…。
きっと私なんかには到底わからないほどの思いだったと思います。
境内に戻り、住吉神社(正確には大島神社というそう)で
お参りをしてからおじいさんにお礼をいうと、
ついでだからと今度は川沿いを案内してくれました。
先ほど見た赤い橋。もともと防波堤はなく、
やはりここは震災前までは渡れたそうです。
震災時にこの周辺は70cm位地盤沈下したそうです。
その為、川沿いの道には防波堤が出来て、
道は砂利で整備されこんな感じになっています。
ここは昔、「袖の渡り」と言われており
源義経が船賃の代わりに片袖をちぎって船頭に
与えたと伝えられ、その石碑なんかもありました。
ちなみにこの赤い橋を渡った小さな島(雄島と言うそう)の
近くには巻石という石があって、その周りを時々渦が巻くらしく
それがこの「石巻」という名前の由来になったという説もあると
おじいさんが教えてくれました。
偶然にも初めて着いた場所が
石巻由来の場所だったとはなんともです。
そのまま川沿いを歩くとおじいさんが言いました。
「ここも写真撮ったら?みんなこんな感じだったよ。」と言って
横を見るとお家が完全に崩れていました。
ここの方は現在仮設住宅に避難されているそうです。
それを聞いてほんの少し安心しましたが、1年以上たっても
まだまだ手つかずの場所があるのだという事も実感しました。
そのまま少し歩くと、
「このまま道なりに行ったら住吉小学校があるから、
それを曲がるとまた町の方へ戻れるよ。」というので、
再びお礼を言っておじいさんと別れ、
川を見ながら一人で歩き始めました。
その道を突き当たると小学校がありました。
ちょうど通学の時間だったので、
元気にみんな学校へ入っていくところでした。
でもこんな川の近くに小学校が…
本当に大変だったと思います。
門の前の先生に軽く会釈しながら、また町の方へ戻っていくと
自転車に乗ったさっきのおじいさんが道の反対からまた声を
かけてくれました。軽くお礼と挨拶を交わすとまたおじいさんが
戻ってきたので再び一緒に歩きながら話します。
来る前に何かで見た
「桜で有名な日和山公園に行こうと思う」と伝えたところ
じゃあ案内しようと言って、自転車を押しながらそのまま
結局また案内してくれることになりました。
話を聞くとこのおじいさんは町のお掃除係りをやっていて
時々ボランティアに来る人たちの案内を時間があれば
しているとのことでした。
お年を聞くと、74歳。でも全然元気です。
そして何よりものすごい記憶力。
道中いろんな話をしてくれるのですが、多くは歴史的なコト。
この場所は伊達正宗が~とか、川村孫兵衛が~とか
歴史が苦手な私には若干難しかったですが、
ただただその記憶力と話に関心しながら
「なるほど~」と聞いていました。
そうこうしているうちに、また川沿いへ戻り
今度は日和山公園を目指します…
④へ続く。。
(って、これ一体いくつまで続くのか…。自分でも謎です)
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Posted by kurumi at 12:06
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